amiteeのほげほげ日記

はてなダイアリーから移行してみました

書いていないあいだのこと

すっかり更新が停滞。ブログや日記のような少しボリュームのある文章を書くことそのものが激減している。時間がないというよりも、mixiFacebookで呟いてばかりいるからだと思う。ひとつひとつはちいさな呟きでも、自分の中から外へ出すことでなんとなく満足してしまって、考えながらアウトプットする機会を自ら放棄しているのかもしれないと思う。

この一年のこと。
昨年の春に、職場で一緒に働く人数が増えて、部署の女性がわたしも含めて3人になったけれど、3人目として入社してきた後輩さんが一年で雇い止めになってしまった。相変わらず厳しい会社。そして今年の春にまた別の後輩さんが入ってきたけれど、その人は出勤7日で音信不通になり、そのまま辞めてしまった(退職願が会社に郵送された)。今年度はかなり忙しくなると踏んでいたのだけど、こうやって人が変わったりいなくなったりするということは、意外とすんなり乗り切れるのかもしれない。もしそうじゃないとすれば、また馬車馬のように働くだけ、道はそれしか残されていない。考えても仕方ないので、状況に合わせて自分をコントロールするしかない。
昨年末に、3DS LLと「とびだせ どうぶつの森」を買った。人生で初めてのゲーム機とゲームだ。遊んでみたらとても楽しくて、ついつい遊んでしまう。ゲームがこれほど中毒性の高いものとは、想像以上だった。30歳も過ぎたいい大人が夢中になって何をやっているんだと思う反面、大人なんだから自分の生活は自分でコントロールできるはずで、じっさい健全な日常生活が営めているのだから別に構わないじゃないかという気持ちもある。でもゲームで遊ぶことで自分の人生が豊かになるかと問われればその答えはNOだろう。それを意識して遊んでいないととんでもないことになりそうで、こんなものを子どもに与えるなんて恐ろしくてできないと思っている。世の中の皆さんはどうしているのだろうか。
あとは、ここ数か月で映画を何本か鑑賞して、多くがとてもおもしろかったということと、今シーズンのドラマもなかなかおもしろいものが多いということぐらいかな。振り返ってみれば、昨年のうちはあまり動きのない、面白味のない半年だったかもしれない。今年に入ってからは、少し風向きが変わってきたような気もしないでもない、気のせいかもしれないけれど。世の中も人生も楽しいことばかりじゃないけれど、自分も頑張らないと、明るいことや楽しいことは勝手にやってくるわけじゃないよね。などと思ったり。
とりあえず、もう少しここを更新した方がいいような気がする。

スミのこと

一か月ほど前、学生時代のエレクトーンサークルの後輩で友人の、スミが亡くなった。
彼は母子感染によるB型肝炎のキャリアで、そこから肝臓癌を発症し、東日本大震災の直前から入院して治療していた。
わたしはちょうど去年のゴールデンウィークに、お見舞いのために岐阜まで行き、そこで会ったのが最後になった。


一緒だったサークルでのことで思い出すことはたくさんあって、でもなぜか今いちばん思い出すのは、演奏が上手だった彼の「弾けない」姿だ。
スミや他の後輩たちがちょっとした大会に出るためにアンサンブルを練習していたとき、スミが苦手にしているとわかったことがあった。
それは、鍵盤を押すタッチを変化させることで本物の楽器のように弾く、タッチトーンの調節だった。
そのときの曲が元は吹奏楽の曲で、スミの担当パートはトランペット。タッチで表現しなければならない箇所の多いパートだった。
曲を披露する場が大会だということもあって、練習を聴いていたわたしや他の仲間も、一緒にアンサンブルをしていたメンバーも、何度もスミに駄目出しをした。
彼は不貞腐れずに何度も何度も練習して、違うと言われてもできなくて、また練習してもやっぱりできなかった。
しまいに「エクスプレッション(音量調節ペダル)でやっちゃダメですかー!」と笑いながら言った彼の忍耐力に、わたしは内心驚いていた。
自分だったらとっくに「もういい」と言うと思ったからだ。事実、一緒に聴いていた仲間の一人も、文句も言わずに練習を繰り返したスミを、後から褒めていた。
今思えば、後からでも本人に伝えれば良かった。


わたしが最初の会社での生活に挫けて、会社を辞めて実家に戻ってきたあと、くだらないプライドが邪魔をしてサークルでの集まりに顔を出さずにいたのを、根気よく誘ってくれたのもスミだった。
スミが誘い続けてくれたOB・OGの飲み会にやっと顔を出したのは、最初の会社を辞めてから実に4年後のことだった。
そのとき隣に座っていた彼は、わたしに向かって、周りに聞こえないような小さな声で「やっと来てくれましたね」と笑顔で言った。
ほんとうに情けないことに、わたしはそのとき初めて、彼がわたしのことをたくさん心配していてくれたことに気がついたのだった。
くだらないことばかり考えていないで、もっと早く元気な顔を見せればよかったと、心の底から後悔した。


訃報を受けて、葬儀へ向かう前は、こんなことで皆と会うなんて嫌だと思っていた。
でも実際に、本当に久しぶりに皆と会って話をしたら、これもまたスミのおかげなんだと思うことができた。
お通夜でご両親に挨拶をしたとき、お母様から「忘れないでいてやってくださいね」と言われたけれど、こうやって仲間と共有したことは、忘れない自信がある。
東北大のエレクトーンサークルは創立してまだ12年半。中でもわたしたちは初期のほうのメンバーだから、これから先のいろんな節目で、必ずスミのことを思い出すだろう。
どこにいても、何をしていても、きっと思い出す。


サークル創立10周年のイベントにはわたしは出席しなかったから、15周年のイベントのときには一緒に何か弾こうとスミと話していた。
住む場所も離れ、わたしなど楽器も持っていない状態で、それでも約束したから、どうすればいいかなと時々考えていた。
それから、去年お見舞いに行った病院で、とことんインドア派のわたしに向かって彼は、「こんど新潟に川嶋たちと釣りに行くとき、あいこさんも一緒に行きましょうよ」と言った。
釣りには興味がないと前に言ってあったのに誘われたので、じゃあスミが治ったら行く、と答えた。
当然、彼はわたしが本気なのかを疑って、「本当ですか?治ったら本当に行きますか?」と訊いてきた。
だから、治ったら必ず行くと答えた。釣りには今もまったく興味はないけれど、一緒に釣りに行きたかった。


強い精神力と大きな心を持って旅立った彼の、次の場所でのくらしが、少しでも楽なものであるように祈っている。
そしてお互い生まれ変わったら、今度はわたしがたくさんの優しさを返せるようであったらいいなと思う。


さようなら。ときどきは近くにきて、笑いながらわたしたちの様子を眺めたり、迷ったときには導いてくれると嬉しいよ。



唯一いっしょに弾いた曲。ピアノソロは2つめの動画と同じ演奏を採った。


スミが繰り返し練習していた曲がこれ。東北大学エレクトーンサークルもMUSICAという名前だ。

近況

公私のうちの公のほうは、悪くない感じで推移。 今年は震災の影響で繁忙期が読めず、その点では 時折焦ることになったけれど、都度なんとかなっ た。たぶん今年度中にもう一山か二山、プチ繁忙 期がやってくると思うのだけど、まあなんとかなるだろう。
去年来ていた「新人ちゃん」は、正直なところ全然仕事ができず、部署全体での業務量は少なかったのに、こなすのにすごく時間がかかった(おそ らく仕事の内容も、性格に合ってなかった)。わたしはずっと二人ぶん働いている気分だったほどだ。けれど今年、震災の後にやってきた後輩さんはなかなかよくやってくれて、彼女の働きがあったから今年の仕事が乗り切れていると言ってよい。引き継ぎもなく不安だっただろうに、今ではある程度任せても心配ないくらいになってくれ た。こうやって振り返るとやはり、物事の流れの妙というか、すべてなるべくしてなるのかなということを、改めて感じる。忙しくなるから彼女が来たのか、彼女が来たから忙しくなったのか、それはわからないけれど。
公私のうちの私のほうは、事件もないけれど胸踊る出来事もない、といった状態。そもそも友だちが秋田にほとんどいない。毎日が会社と家の往復で終わりなうえに、いちど真剣になると仕事にかなりのエネルギーを注いでしまうからか、休日も結構ぐったり。生来の体力の無さが災いして、なかなかアクションを起こせないのだ。何かこれまでと違うことをしていかないと、このまま淡々と毎日が過ぎゆくだけだと、やっと最近思い始めた。とりあえず、仕事をきちんとやりつつ、自分のためのエネルギーを残して帰宅することを考 えたい。
結局のところ、半年以上の間が空いても、これといって大きな出来事は無かったということ。平和で良いと言えばそれもそうだけれど、何かちょっとくらい変わったことがないと、自分が何歳なのかも忘れてしまいそうだ。早いもので、今月で31歳になる。こんな平坦な日記を書いていないで、もう少し楽しいことやワクワクするようなことを書きたいものだ。

遅ればせながら、いろいろ

あの日は妙に仕事が多い日だったので、朝から「今日はしっかり残業だな」と思いながら働いていた。地震が起きて少ししてから停電した時も、「まったくこの忙しい日に!」などと悪態をついていたし、中ボスは作業中のデータが消えたことを嘆いていた(わたしは揺れ始めてすぐに上書き保存していたのでセーフ)。地震直後から太平洋側に大津波警報が出ていたことは携帯のワンセグを見て知っていたし、秋田市内が比較的何ともないのに停電もなかなか復旧しないので、夜になりかかる頃には、関東以北が普通ではなくなったということは何となくわかっていた。けれどこちらは停電以外はほぼ普通。大きな災害という実感はあまりなかった。
夜、電気も点かないし寝ようと思ったときになおやから電話が掛かってきた。早々に「電池がもったいないから切る!」と言ったわたしに、「テレビ見られないんだよな。どうなってるかわかるか?」と言うので「関東よりこっちが大体やられたってことは何となくわかったよ」と言うと、ひどく暗い声で「太平洋側がひどいことになってるよ。本当にひどいことになった」と言う。この言葉と、携帯のちいさな画面で見た大津波警報の画面とが繋がり、太平洋側に何があったのかを悟った。このときのなおやの暗い声は、耳の底にへばりつくようにしてずっと残っている。
翌朝、ラジオから「仙台市の荒浜で200から300の遺体」と聞こえる。おののいた。でも状況がわかるところはまだマシなのだということが、後になってわかったのだった。宮城県内に暮らすわたしの友人・知人は皆とりあえず無事だったのがせめてもの救いであった。

地震から約1ヵ月後の4月19日は、MR.BIGの秋田公演の日だった。歯列矯正の診察をお休みにしてもらって楽しみにしていたのだけど、地震があったのでどうなるかなと思っていた。福島の原発のこともあり、日本公演を取りやめるアーティストもいたようだけれど、親日家のMR.BIGの4人は来ることを選択したのだった。来ても来なくても彼らが決めたことを尊重しようとは思ってても、いざ公演が決行となるとやはり嬉しかった。行きたくても行けなかった人には本当に申し訳ないことである。
前にも思ったことがあるけれど、秋田はシャイな人が多いのか、会場ではツアーTシャツを着ている人はとても少ないし、メンバーの名前を呼んだり掛け声をかけたりする人も少ない。腕を振ったり跳んだりしている人も少ないけれど、周りのことは気にしないことにして、今回も一人でしっかり楽しんだ。
動画は、地震が起こったことで急遽作られ、チャリティCDとしてツアーの各会場で販売された曲。ライブでは歌詞の日本語訳(動画でも出ている)がステージに写っていた。この日本語訳がちょっと直訳すぎて個人的には少しざんねんだったけれど、「より伝えたい」気持ちがわかった点では良かった。泣ける一曲。

話が逸れるのだけど、実はわたし、ユニゾンとハモりが大好物である。今回ロック色が強まったMR.BIGのアルバムはポールとビリーのユニゾンが随所に鏤められ、ライブでもエリックの後ろで3人がしっかりコーラスするのでとても楽しかった。


書くことはまだあるはずなのだけど、長くなったのでとりあえずこの辺で。

broken hearted

3月3日、ひな祭りの日。その少し前に、母子感染のB型肝炎で入院していると知らせのあった、学生時代のサークルの後輩であり友人でもある人から、「特に仲良くしてもらっている皆さんへ」と始まる、信じたくない報告があった。
それは、肝炎は肝臓ガンだった、というものだった。 その時点では転移しているかどうかはまだ不明だった。 今後どのような治療が可能かも、その時点では不透明。
他に誰に送信されたかもわからない一斉送信のメールに一緒に書いてあったのは、大体こんなことだった。
「治療の副作用で、今までの自分とは違う姿になるかもしれない。でも、最悪の場合数ヶ月で死んでしまう。みんなと会えないままお別れというのは辛いから、ぜひ会いに来て欲しい。」
彼が入院しているのは仙台の病院だった。仙台ならすぐに行ける。5日の土曜日に仙台へ行くように切符を取り、土曜日に行くから会って話そう、とメールした。すると、その週末は実家の愛知から家族が集合するので、あまり時間が取れない気がする、と言う。
じゃあ来週の土曜日、12日にする。
そう返したら、その晩、彼から電話が来た。
転移はしていなかったから、すぐに抗ガン剤で治療を開始すること。
この週末はいろんな人がお見舞いに来てくれることになって、西日本から来てくれる人もいるのだということ。
同じサークルの仲間で医師になった友人に、とても助けられていること。
B型肝炎からの肝臓ガンは、一度治っても、何度も何度も叩いていかなければいけないこと。
死ぬのは怖くないということ。
数ヶ月延命するなんて意味がないと思っていること。
そういういろんなことを聞いたあと、彼が言った。「ところで、日曜日なら時間取れるかもしれないんですけど、来ますか?」「でもとりあえず仙台で治療です。どんなふうになるかもわからないので、少し落ち着いてから来てもらうのも、ありですよ。」
このとき、「日曜日に仙台に行かなかったら、彼に会えなくなるのではないか」という気がした。根拠は全くない。なんとなくだった。
ガンと聞いて、死を意識しない人はいないと思う。
わたしは、彼が死んでしまう、とは思わなかったけれど、死ぬかもしれない、とは思った。早く会いに行かなければ、実家に近い病院に移ってしまうかもしれないとも思った。それでも、電話で話した彼が普段と変わらない口調だったことと、「今たくさんお見舞いに来てもらっているので、少し落ち着いてからゆっくりでもいい」と言われたことで、少し安心した。
それに「会えなくなるのではないか」と思うこと自体、彼が死んでしまうと思っているみたいで、嫌だった。
だから、少し様子を見てから行くことにする、と答えたのだ。

そして3月11日、地震がやってきた。

彼は病院で、ちゃんと生きていたし、被災した他のみんなよりも早く普通の(入院)生活に戻った。でも、きっとそうなるのだろうとわたしが思っていたとおり、実家近くの病院へ転院することになった。
3月19日の土曜日の朝、岐阜の病院へ転院するという連絡とともに、彼は仙台を去った。

震災から一週間。周りのみんなが「自分にできることは何か」とつぶやき、考え、動いているときに、わたしは「自分には何もできない」という感覚に、再び囚われた。他人からしたら大したことではないかもしれないけれど、わたしにはひどくつらかった。

彼が病気になったことも、あんなに大きな地震が起こったことも、わたしがどうにかできたことではない。地震が起こらなければ、彼はまだ仙台で入院していたはずだ。抗ガン剤での治療は既に始まっていたのだ。
それでも、無力感が拭えなかった。


できるときに、できることを、できるだけやる。
数年前から、心がしんどいときに呪文のように唱えてきた。この中でいちばんだいじなのは、「できるだけやる」の部分だと思う。
「できるだけやる」とは力の限り頑張るということなので、それができるかどうかだけが、自分の意思に左右される。

彼はもちろんまだ生きている。
だから次にわたしにできることは、なんとしても彼に会いに行くこと。
彼が「会いたい」とメッセージを送った人たちの中に、わたしは入っていたのだから。


日記のタイトルはエリック・クラプトンの曲のタイトルです。傷ついた心を癒す曲はたくさんあるけれど、今日はこれ。

なるべく楽しいこと、明るいことを書こうと思っているのだけど、今回のことは誰にも言わないでいたので、どうしても書かないと進めない気がして書いてしまいました。この週末ほんとうに落ち込んでいたけれど、少しすっきりした気がします。
次は明るい話題で日記が書けますように。

古式ゆかしく

きょう会社で、書類チェックを頼みに、とあるおじいちゃんの所へ行った。
その人のデスク付近までたどり着いたら、どうも普段オフィスで見ないようなものを持っている様子。
さらに近づいてよく観察したところ…

1.PCでExcelの表を開き、
2.机上に関数電卓を置き、
3.その上から左手でそろばんを持ち、
4.右手でそろばんを弾き、
5.出てきた数字をExcelの表に入力。

…という、謎な作業をしていた。

Excel関数電卓の立場がない。

すごくコメントしたかったけれど、おじいちゃんだし、そんなことを言える相手ではない。
というわけで、黙って用事だけ伝えて戻ったのだった。
でも、その人はExcelの本も持っていて普段からよく参考にしている様子。しかも時々、わざわざわたしのいる部屋までやってきて「これってどういう数式入れればいいの?」とか尋ねられることもある。だからExcelが全く使えないというわけではないはずなのだ。
気になる。何してたんだろう。

担任だったK一先生と遭遇

高校2年・3年と担任の先生だった、S藤K一先生と、駅前で遭遇。たぶん8年ぶりぐらい。
一瞬で誰だか判るほど全く変わっておらず(お互い様か)、案の定わーきゃーと騒いだわたしに対して、相変わらずの冷静沈着な対応。クールというかドライというか、まあそれがK一先生。
わたしが高校を出たときは3歳だった息子さんも、今では立派に中学3年生とのこと。そりゃそうだ。
ちなみに、この先生の一言がなければ、わたしは東北大に進学しなかった。
センター試験で目標点に届かず、どうしても浪人したくなかったので「文転します」と言いに行った。人文学系を念頭に関東地方の大学をいくつか挙げたら、「そんなとこより、ここ」と出された候補が東北大学の文学部。東北大には届かないと思い込んでいたのが、センター試験の点数から判定にかけてみると安全圏な感じ。そして後期も東北大を受けるなら教育学部が安全という話になり、「先生になることは全く考えてないのですが」と話したら「大丈夫、東北大の教育学部はゼロ免(教員養成課程を設置してない)だから」という返事。結局、これが進路を決定づけた。
前期試験は、試験会場に行ってみたらどうにも落ちる気がして、予想通りに不合格。あれは何だったんだろう。そして後期試験で教育学部に合格。まさかその後6年も通うとは思いもよらなかったけど。
受験期の思い出はもう一つ。K一先生の奥さんが東京へ行くことになり、先生は「生徒たちのために、学業の御守を買ってきて」と頼んだそうだ。奥さんが帰ってきたら、買ってきたのは靖国神社の御守。「愚妻に頼んだら靖国神社の御守を買ってきてしまった。ということで君たちは、英霊に見守られながら受験してください」と言って、掲示してある時間割表の画鋲にその御守をかけていた先生。あの御守はその後どうなったのだろうか。
K一先生は決して熱血な先生ではなかったけれど、では生徒のことを考えていないかというと、そうではなかったと思う。またどこかで元気に会いたいものだ。