amiteeのほげほげ日記

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broken hearted

3月3日、ひな祭りの日。その少し前に、母子感染のB型肝炎で入院していると知らせのあった、学生時代のサークルの後輩であり友人でもある人から、「特に仲良くしてもらっている皆さんへ」と始まる、信じたくない報告があった。
それは、肝炎は肝臓ガンだった、というものだった。 その時点では転移しているかどうかはまだ不明だった。 今後どのような治療が可能かも、その時点では不透明。
他に誰に送信されたかもわからない一斉送信のメールに一緒に書いてあったのは、大体こんなことだった。
「治療の副作用で、今までの自分とは違う姿になるかもしれない。でも、最悪の場合数ヶ月で死んでしまう。みんなと会えないままお別れというのは辛いから、ぜひ会いに来て欲しい。」
彼が入院しているのは仙台の病院だった。仙台ならすぐに行ける。5日の土曜日に仙台へ行くように切符を取り、土曜日に行くから会って話そう、とメールした。すると、その週末は実家の愛知から家族が集合するので、あまり時間が取れない気がする、と言う。
じゃあ来週の土曜日、12日にする。
そう返したら、その晩、彼から電話が来た。
転移はしていなかったから、すぐに抗ガン剤で治療を開始すること。
この週末はいろんな人がお見舞いに来てくれることになって、西日本から来てくれる人もいるのだということ。
同じサークルの仲間で医師になった友人に、とても助けられていること。
B型肝炎からの肝臓ガンは、一度治っても、何度も何度も叩いていかなければいけないこと。
死ぬのは怖くないということ。
数ヶ月延命するなんて意味がないと思っていること。
そういういろんなことを聞いたあと、彼が言った。「ところで、日曜日なら時間取れるかもしれないんですけど、来ますか?」「でもとりあえず仙台で治療です。どんなふうになるかもわからないので、少し落ち着いてから来てもらうのも、ありですよ。」
このとき、「日曜日に仙台に行かなかったら、彼に会えなくなるのではないか」という気がした。根拠は全くない。なんとなくだった。
ガンと聞いて、死を意識しない人はいないと思う。
わたしは、彼が死んでしまう、とは思わなかったけれど、死ぬかもしれない、とは思った。早く会いに行かなければ、実家に近い病院に移ってしまうかもしれないとも思った。それでも、電話で話した彼が普段と変わらない口調だったことと、「今たくさんお見舞いに来てもらっているので、少し落ち着いてからゆっくりでもいい」と言われたことで、少し安心した。
それに「会えなくなるのではないか」と思うこと自体、彼が死んでしまうと思っているみたいで、嫌だった。
だから、少し様子を見てから行くことにする、と答えたのだ。

そして3月11日、地震がやってきた。

彼は病院で、ちゃんと生きていたし、被災した他のみんなよりも早く普通の(入院)生活に戻った。でも、きっとそうなるのだろうとわたしが思っていたとおり、実家近くの病院へ転院することになった。
3月19日の土曜日の朝、岐阜の病院へ転院するという連絡とともに、彼は仙台を去った。

震災から一週間。周りのみんなが「自分にできることは何か」とつぶやき、考え、動いているときに、わたしは「自分には何もできない」という感覚に、再び囚われた。他人からしたら大したことではないかもしれないけれど、わたしにはひどくつらかった。

彼が病気になったことも、あんなに大きな地震が起こったことも、わたしがどうにかできたことではない。地震が起こらなければ、彼はまだ仙台で入院していたはずだ。抗ガン剤での治療は既に始まっていたのだ。
それでも、無力感が拭えなかった。


できるときに、できることを、できるだけやる。
数年前から、心がしんどいときに呪文のように唱えてきた。この中でいちばんだいじなのは、「できるだけやる」の部分だと思う。
「できるだけやる」とは力の限り頑張るということなので、それができるかどうかだけが、自分の意思に左右される。

彼はもちろんまだ生きている。
だから次にわたしにできることは、なんとしても彼に会いに行くこと。
彼が「会いたい」とメッセージを送った人たちの中に、わたしは入っていたのだから。


日記のタイトルはエリック・クラプトンの曲のタイトルです。傷ついた心を癒す曲はたくさんあるけれど、今日はこれ。

なるべく楽しいこと、明るいことを書こうと思っているのだけど、今回のことは誰にも言わないでいたので、どうしても書かないと進めない気がして書いてしまいました。この週末ほんとうに落ち込んでいたけれど、少しすっきりした気がします。
次は明るい話題で日記が書けますように。