amiteeのほげほげ日記

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かきかた

先日、13日の記述(id:amitee:20051213#p3)に対して、ながひろさん(id:Monaghan:20051219)からトラックバックをもらった。仮にも文系の大学院で修士号をもらった人間としては、特に文章においては、漢字やカギカッコのつかいかたを含めて、言葉や書き方そのものについて、ある程度気を配ってきたつもりである。
ここで話題になった「子ども」という記述に関しては、こう表記することそれ自体が、既に一つの主張である。これと似たような現象は教育界においては「基準」・「規準」問題というかたちでも起こっていたが、しかしえてしてこういった論争にも、流行というものが大きく関わってくるものである。
一般的な意味で、言葉は変わっていく、といえるだろう。そのこと自体に異議を唱えるつもりはない。しかし、その一方で、教育学のみならず、広く人文科学を志す者は、その表記ひとつが自らの思想を表しているということに対して、敏感であらねばならないと考えている。もしかしたら、指導教員の主張と自分の主張は、違っているかもしれないのだ。この表記はおかしいから訂正しなさいと教員から求められたとき、それが自らの主張に明らかに反している場合は、漢字ひとつであっても、書き換えないという意思を示さなくてはならない。もちろん、そう考える根拠をも同時に示す必要がある。結果的に書き換えることになったとしても、しっかりした指導教員であれば、こちらがそう表記するに到った思考の経緯を理解することは、してくれるはずだ。それは必ず、自分の今後に生きてくる。かつて指導を仰いでいた教員と同じ主張ではあるが、「流行っているから」「みんながそう書いているから」同じように書く、という姿勢ではいけない、と、わたしも思うのだ。
このような考え方を、何も世の中の人みんなに押し付けようとは思っていない。そうしたい人はそうすればいいし、どうでもいいと思う人はそれでいい。ただ、修士論文をひたすら自分の書きたいように書いて修了した自分にとって、たったひとつ敏感になれた、論文の拠り所のようなものが、「言葉遣い」であったことを、ながひろさんからのトラックバックで、ふと思い出したのだ。
それは一年前の今頃、論文提出の二週間前に全く意味のわからない全体発表会があって、それもサークルでの最後のコンサートの直前で、それで数日徹夜して誕生日もよくわからなくなっていたせいも、あるのかもしれない。