amiteeのほげほげ日記

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話してもわからないこともある

街中でいろいろと用事を済ませた後、おなかが減って仕方なかったので、イタリアントマト・「カフェエ」Jrに寄って「ディナーセット」を食べた。このセット、好きなパスタとミニサラダ、「本日のケーキ」にコーヒーか紅茶がついて1000円なので、たまに食べたくなる。すてき。

さて、ひとりでパスタを食べていたら、隣に座っているおばさまたちの会話がすばらしくはっきり聞こえてきた。趣味が悪いが、こういうところで何食わぬ顔をしてひとの話を聞いているのは、なかなかおもしろい。おもしろい代わりにと言うのもおかしいが、自分もあちこちでおもしろい話をいつのまにか提供してしまっている自信があるので、是非ともそこはおあいこということにしたい。
このおばさま三人、正確には、「おばさま」という年代の方が二人に、73歳のおばあさまが一人。73歳というのは話を聞いていて自然にわかった。一生懸命話しているその話題は、老親介護。

73歳のおばあさま、一人娘が現在大学教授で、結婚しているらしい。娘さんのお舅さんは既に亡くなったのだが、お姑さんの調子も思わしくないようだ。おばあさま自身も、旦那さんが亡くなっていて今は一人暮らしだけれど、いつどうなるかはもちろんわからない。そこで娘さんから、「お義母さんとお母さんで一緒に暮らしてくれないか」という話が出そうになっているのだ、という。おばあさまとしてはたまったものではない。旦那さまも亡くなって自由気ままに生きているのに、娘の姑と一緒に暮らしたいわけはないし、姑の性格的に、自分とは合わないように思うのだそうだ。
おばあさまにとっては、娘さんは「変に正義感が強くて自分が双方の親をみなくちゃいけないと思っているみたい」で、けれど実際には「お舅さんのときもうちのときも、結局はお葬式を出してくれただけ」。さらに、「娘が仕事を辞めなければ介護は無理だと思うけれど、そんなことは娘にはとても言えない。何か言ったら百倍のお説教が返ってくる」らしい。さすが大学教授。

一人っ子なうえにジョシのわたしは、明日は我が身と思って聞いていた。今の時点でも、将来、いざというときに両親のことをどう考えるかについては、比較的常に、頭にあると言ってよい。いま既に存在しているお墓をどうするかはわりと簡単なことだが、親のこととなると簡単にはいかない。もしも結婚したら、相手のご両親のことだって考えなければならない。キャリア志向というほどでもないけれど、年を重ねてもそれなりの仕事をしていたならば、介護のために仕事を辞めることなど微塵も考えないに違いない。まして故郷に戻るつもりは一切ない。
両親は「自分たちのお金で老人ホームにでも入るから」と言うけれど、そううまくいくのか疑問だし、だいいち、そういう単純な問題なのだろうか?

隣で一生懸命話していたおばさまたちも、自分もそうだが、この手の話で悲壮感が漂っているのを、わたしはあまり見たことがない。今日のおばあさまだって、話の内容からするとずいぶん困っているようだったが、真剣に困っているというようには見えなかった。おばさまたちは「日頃からよく話し合っておくことが大切なのねぇぇ」と言い合っていて、そこに反対はしないが、話し合えば互いの本音がわかるかというと、そうではない。家族や肉親だからこそ言えない本音や、見えない気持ちがあるはずだ。そしてそれがわかったほうがいいのかというと、そうとも言い切れない。老親介護の本当の難しさは、そこにある…といつも思うのである。