amiteeのほげほげ日記

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スミのこと

一か月ほど前、学生時代のエレクトーンサークルの後輩で友人の、スミが亡くなった。
彼は母子感染によるB型肝炎のキャリアで、そこから肝臓癌を発症し、東日本大震災の直前から入院して治療していた。
わたしはちょうど去年のゴールデンウィークに、お見舞いのために岐阜まで行き、そこで会ったのが最後になった。


一緒だったサークルでのことで思い出すことはたくさんあって、でもなぜか今いちばん思い出すのは、演奏が上手だった彼の「弾けない」姿だ。
スミや他の後輩たちがちょっとした大会に出るためにアンサンブルを練習していたとき、スミが苦手にしているとわかったことがあった。
それは、鍵盤を押すタッチを変化させることで本物の楽器のように弾く、タッチトーンの調節だった。
そのときの曲が元は吹奏楽の曲で、スミの担当パートはトランペット。タッチで表現しなければならない箇所の多いパートだった。
曲を披露する場が大会だということもあって、練習を聴いていたわたしや他の仲間も、一緒にアンサンブルをしていたメンバーも、何度もスミに駄目出しをした。
彼は不貞腐れずに何度も何度も練習して、違うと言われてもできなくて、また練習してもやっぱりできなかった。
しまいに「エクスプレッション(音量調節ペダル)でやっちゃダメですかー!」と笑いながら言った彼の忍耐力に、わたしは内心驚いていた。
自分だったらとっくに「もういい」と言うと思ったからだ。事実、一緒に聴いていた仲間の一人も、文句も言わずに練習を繰り返したスミを、後から褒めていた。
今思えば、後からでも本人に伝えれば良かった。


わたしが最初の会社での生活に挫けて、会社を辞めて実家に戻ってきたあと、くだらないプライドが邪魔をしてサークルでの集まりに顔を出さずにいたのを、根気よく誘ってくれたのもスミだった。
スミが誘い続けてくれたOB・OGの飲み会にやっと顔を出したのは、最初の会社を辞めてから実に4年後のことだった。
そのとき隣に座っていた彼は、わたしに向かって、周りに聞こえないような小さな声で「やっと来てくれましたね」と笑顔で言った。
ほんとうに情けないことに、わたしはそのとき初めて、彼がわたしのことをたくさん心配していてくれたことに気がついたのだった。
くだらないことばかり考えていないで、もっと早く元気な顔を見せればよかったと、心の底から後悔した。


訃報を受けて、葬儀へ向かう前は、こんなことで皆と会うなんて嫌だと思っていた。
でも実際に、本当に久しぶりに皆と会って話をしたら、これもまたスミのおかげなんだと思うことができた。
お通夜でご両親に挨拶をしたとき、お母様から「忘れないでいてやってくださいね」と言われたけれど、こうやって仲間と共有したことは、忘れない自信がある。
東北大のエレクトーンサークルは創立してまだ12年半。中でもわたしたちは初期のほうのメンバーだから、これから先のいろんな節目で、必ずスミのことを思い出すだろう。
どこにいても、何をしていても、きっと思い出す。


サークル創立10周年のイベントにはわたしは出席しなかったから、15周年のイベントのときには一緒に何か弾こうとスミと話していた。
住む場所も離れ、わたしなど楽器も持っていない状態で、それでも約束したから、どうすればいいかなと時々考えていた。
それから、去年お見舞いに行った病院で、とことんインドア派のわたしに向かって彼は、「こんど新潟に川嶋たちと釣りに行くとき、あいこさんも一緒に行きましょうよ」と言った。
釣りには興味がないと前に言ってあったのに誘われたので、じゃあスミが治ったら行く、と答えた。
当然、彼はわたしが本気なのかを疑って、「本当ですか?治ったら本当に行きますか?」と訊いてきた。
だから、治ったら必ず行くと答えた。釣りには今もまったく興味はないけれど、一緒に釣りに行きたかった。


強い精神力と大きな心を持って旅立った彼の、次の場所でのくらしが、少しでも楽なものであるように祈っている。
そしてお互い生まれ変わったら、今度はわたしがたくさんの優しさを返せるようであったらいいなと思う。


さようなら。ときどきは近くにきて、笑いながらわたしたちの様子を眺めたり、迷ったときには導いてくれると嬉しいよ。



唯一いっしょに弾いた曲。ピアノソロは2つめの動画と同じ演奏を採った。


スミが繰り返し練習していた曲がこれ。東北大学エレクトーンサークルもMUSICAという名前だ。