amiteeのほげほげ日記

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「語る」ことと良心の関係

後輩・Gozinのブログで、家庭教師先でトラブルになったと書いているのを読んだ。彼はブログの中で、「教育の基本は何をさしおいても自尊心の形成が最重要事項なのだろう。多分。」と書いている。そうかもしれないし、そうでないかもしれないと思う。「教育の最重要事項は何か」と問われて答えられる人が、どれくらいいるだろうか。
また比較的最近、大学では「教育を科学しよう〜教科書の「科学」と最新の教育動向〜」というタイトルでのサイエンスカフェが催されたようだ。このイベントに関するタカキさんのブログも読んだ。
本当は孫引きになってしまうのでいけないが、他に方法がないのでタカキさんのブログから引用させてもらうと、

教育は価値と利害にかかわる営みであるために、教育論議は多用な価値観や利害関心が錯綜するものとならざるを得ず、容易には合意に至ることはできない。そのうえ、教育はだれもが自分の経験に基づいて対等の資格で語ることのできる領域だと考えられがちであるだけに、教育・学校はどうあるべきかという当為論や、どういう教育が望ましいかという理想論のレベルにとどまりがちになる(『新版 教育学がわかる』朝日新聞社、2003年、4-8頁、藤田英典筆を参照)。

これはまさしく、わたしが畑違いの人と教育について語りたくないと思う理由の一つである。しかし、以前、「『科学的な手順』を踏まない人々とも語りたいし、そうすることで学問が発展するのではないか」と言った先輩がいた。その人はまったく違う分野に身を置いていたので、わたしが「語りたくない」と言ったことに対しては賛成も反対もしなかったが、今回のサイエンスカフェの趣旨は、その人の考え方と一致しているように思う。
繰り返しになるが、今回のサイエンスカフェのタイトルは「教育を科学しよう」である。これについてタカキさんは、

教育を「科学」するとは、抽象的に言えば、そういった自分がもつ教育観を相対化する試みだと考える。

と書いている。(「そういった」というのは、前で引用した「教育・学校はどうあるべきかという当為論や、どういう教育が望ましいかという理想論」を指す。)わたしもその考えに賛成だ。しかしながら、その「相対化」の作業が、少なくともわたしにとっては、非常に難しい。相対化するためのものさしを作る作業が困難を極めるため、科学的な手順を踏もうとすると、理想論にすらたどり着けないことも多い。また「教育を『科学』する」を広義に解釈すると、居酒屋議論レベルの論理展開を否定するものとなり得るだろう。
教育に関して言いたいこと、思っていることはたくさんある。しかし、少なくとも自分に関しては、教育学研究の場にいたならば、どんな場合であっても、ものを言うときにはできる限りの科学的な方法を採らなくてはならないと考えている。そして教育学研究の場にいないならば(即ち科学的にものを言えない状態ならば)、そのときは口をつぐんでいなくてはならないと思っている。
子どもたちが「生き生きと」授業に取り組んでいる状態や、「おもしろい」授業の存在を知らないわけではない。ただ、「それらが何なのか」が学問的には説明できないだけだ。また、冒頭の「自尊心の形成」について、「では具体的にどうすれば、子どもに自尊心を形成させることができるのだろうか」と書いてしまうことは、簡単なことなのである。それを書かないことが良心の表し方だと思っているのだが、間違っているだろうか。