amiteeのほげほげ日記

はてなダイアリーから移行してみました

近況

公私のうちの公のほうは、悪くない感じで推移。 今年は震災の影響で繁忙期が読めず、その点では 時折焦ることになったけれど、都度なんとかなっ た。たぶん今年度中にもう一山か二山、プチ繁忙 期がやってくると思うのだけど、まあなんとかなるだろう。
去年来ていた「新人ちゃん」は、正直なところ全然仕事ができず、部署全体での業務量は少なかったのに、こなすのにすごく時間がかかった(おそ らく仕事の内容も、性格に合ってなかった)。わたしはずっと二人ぶん働いている気分だったほどだ。けれど今年、震災の後にやってきた後輩さんはなかなかよくやってくれて、彼女の働きがあったから今年の仕事が乗り切れていると言ってよい。引き継ぎもなく不安だっただろうに、今ではある程度任せても心配ないくらいになってくれ た。こうやって振り返るとやはり、物事の流れの妙というか、すべてなるべくしてなるのかなということを、改めて感じる。忙しくなるから彼女が来たのか、彼女が来たから忙しくなったのか、それはわからないけれど。
公私のうちの私のほうは、事件もないけれど胸踊る出来事もない、といった状態。そもそも友だちが秋田にほとんどいない。毎日が会社と家の往復で終わりなうえに、いちど真剣になると仕事にかなりのエネルギーを注いでしまうからか、休日も結構ぐったり。生来の体力の無さが災いして、なかなかアクションを起こせないのだ。何かこれまでと違うことをしていかないと、このまま淡々と毎日が過ぎゆくだけだと、やっと最近思い始めた。とりあえず、仕事をきちんとやりつつ、自分のためのエネルギーを残して帰宅することを考 えたい。
結局のところ、半年以上の間が空いても、これといって大きな出来事は無かったということ。平和で良いと言えばそれもそうだけれど、何かちょっとくらい変わったことがないと、自分が何歳なのかも忘れてしまいそうだ。早いもので、今月で31歳になる。こんな平坦な日記を書いていないで、もう少し楽しいことやワクワクするようなことを書きたいものだ。

遅ればせながら、いろいろ

あの日は妙に仕事が多い日だったので、朝から「今日はしっかり残業だな」と思いながら働いていた。地震が起きて少ししてから停電した時も、「まったくこの忙しい日に!」などと悪態をついていたし、中ボスは作業中のデータが消えたことを嘆いていた(わたしは揺れ始めてすぐに上書き保存していたのでセーフ)。地震直後から太平洋側に大津波警報が出ていたことは携帯のワンセグを見て知っていたし、秋田市内が比較的何ともないのに停電もなかなか復旧しないので、夜になりかかる頃には、関東以北が普通ではなくなったということは何となくわかっていた。けれどこちらは停電以外はほぼ普通。大きな災害という実感はあまりなかった。
夜、電気も点かないし寝ようと思ったときになおやから電話が掛かってきた。早々に「電池がもったいないから切る!」と言ったわたしに、「テレビ見られないんだよな。どうなってるかわかるか?」と言うので「関東よりこっちが大体やられたってことは何となくわかったよ」と言うと、ひどく暗い声で「太平洋側がひどいことになってるよ。本当にひどいことになった」と言う。この言葉と、携帯のちいさな画面で見た大津波警報の画面とが繋がり、太平洋側に何があったのかを悟った。このときのなおやの暗い声は、耳の底にへばりつくようにしてずっと残っている。
翌朝、ラジオから「仙台市の荒浜で200から300の遺体」と聞こえる。おののいた。でも状況がわかるところはまだマシなのだということが、後になってわかったのだった。宮城県内に暮らすわたしの友人・知人は皆とりあえず無事だったのがせめてもの救いであった。

地震から約1ヵ月後の4月19日は、MR.BIGの秋田公演の日だった。歯列矯正の診察をお休みにしてもらって楽しみにしていたのだけど、地震があったのでどうなるかなと思っていた。福島の原発のこともあり、日本公演を取りやめるアーティストもいたようだけれど、親日家のMR.BIGの4人は来ることを選択したのだった。来ても来なくても彼らが決めたことを尊重しようとは思ってても、いざ公演が決行となるとやはり嬉しかった。行きたくても行けなかった人には本当に申し訳ないことである。
前にも思ったことがあるけれど、秋田はシャイな人が多いのか、会場ではツアーTシャツを着ている人はとても少ないし、メンバーの名前を呼んだり掛け声をかけたりする人も少ない。腕を振ったり跳んだりしている人も少ないけれど、周りのことは気にしないことにして、今回も一人でしっかり楽しんだ。
動画は、地震が起こったことで急遽作られ、チャリティCDとしてツアーの各会場で販売された曲。ライブでは歌詞の日本語訳(動画でも出ている)がステージに写っていた。この日本語訳がちょっと直訳すぎて個人的には少しざんねんだったけれど、「より伝えたい」気持ちがわかった点では良かった。泣ける一曲。

話が逸れるのだけど、実はわたし、ユニゾンとハモりが大好物である。今回ロック色が強まったMR.BIGのアルバムはポールとビリーのユニゾンが随所に鏤められ、ライブでもエリックの後ろで3人がしっかりコーラスするのでとても楽しかった。


書くことはまだあるはずなのだけど、長くなったのでとりあえずこの辺で。

broken hearted

3月3日、ひな祭りの日。その少し前に、母子感染のB型肝炎で入院していると知らせのあった、学生時代のサークルの後輩であり友人でもある人から、「特に仲良くしてもらっている皆さんへ」と始まる、信じたくない報告があった。
それは、肝炎は肝臓ガンだった、というものだった。 その時点では転移しているかどうかはまだ不明だった。 今後どのような治療が可能かも、その時点では不透明。
他に誰に送信されたかもわからない一斉送信のメールに一緒に書いてあったのは、大体こんなことだった。
「治療の副作用で、今までの自分とは違う姿になるかもしれない。でも、最悪の場合数ヶ月で死んでしまう。みんなと会えないままお別れというのは辛いから、ぜひ会いに来て欲しい。」
彼が入院しているのは仙台の病院だった。仙台ならすぐに行ける。5日の土曜日に仙台へ行くように切符を取り、土曜日に行くから会って話そう、とメールした。すると、その週末は実家の愛知から家族が集合するので、あまり時間が取れない気がする、と言う。
じゃあ来週の土曜日、12日にする。
そう返したら、その晩、彼から電話が来た。
転移はしていなかったから、すぐに抗ガン剤で治療を開始すること。
この週末はいろんな人がお見舞いに来てくれることになって、西日本から来てくれる人もいるのだということ。
同じサークルの仲間で医師になった友人に、とても助けられていること。
B型肝炎からの肝臓ガンは、一度治っても、何度も何度も叩いていかなければいけないこと。
死ぬのは怖くないということ。
数ヶ月延命するなんて意味がないと思っていること。
そういういろんなことを聞いたあと、彼が言った。「ところで、日曜日なら時間取れるかもしれないんですけど、来ますか?」「でもとりあえず仙台で治療です。どんなふうになるかもわからないので、少し落ち着いてから来てもらうのも、ありですよ。」
このとき、「日曜日に仙台に行かなかったら、彼に会えなくなるのではないか」という気がした。根拠は全くない。なんとなくだった。
ガンと聞いて、死を意識しない人はいないと思う。
わたしは、彼が死んでしまう、とは思わなかったけれど、死ぬかもしれない、とは思った。早く会いに行かなければ、実家に近い病院に移ってしまうかもしれないとも思った。それでも、電話で話した彼が普段と変わらない口調だったことと、「今たくさんお見舞いに来てもらっているので、少し落ち着いてからゆっくりでもいい」と言われたことで、少し安心した。
それに「会えなくなるのではないか」と思うこと自体、彼が死んでしまうと思っているみたいで、嫌だった。
だから、少し様子を見てから行くことにする、と答えたのだ。

そして3月11日、地震がやってきた。

彼は病院で、ちゃんと生きていたし、被災した他のみんなよりも早く普通の(入院)生活に戻った。でも、きっとそうなるのだろうとわたしが思っていたとおり、実家近くの病院へ転院することになった。
3月19日の土曜日の朝、岐阜の病院へ転院するという連絡とともに、彼は仙台を去った。

震災から一週間。周りのみんなが「自分にできることは何か」とつぶやき、考え、動いているときに、わたしは「自分には何もできない」という感覚に、再び囚われた。他人からしたら大したことではないかもしれないけれど、わたしにはひどくつらかった。

彼が病気になったことも、あんなに大きな地震が起こったことも、わたしがどうにかできたことではない。地震が起こらなければ、彼はまだ仙台で入院していたはずだ。抗ガン剤での治療は既に始まっていたのだ。
それでも、無力感が拭えなかった。


できるときに、できることを、できるだけやる。
数年前から、心がしんどいときに呪文のように唱えてきた。この中でいちばんだいじなのは、「できるだけやる」の部分だと思う。
「できるだけやる」とは力の限り頑張るということなので、それができるかどうかだけが、自分の意思に左右される。

彼はもちろんまだ生きている。
だから次にわたしにできることは、なんとしても彼に会いに行くこと。
彼が「会いたい」とメッセージを送った人たちの中に、わたしは入っていたのだから。


日記のタイトルはエリック・クラプトンの曲のタイトルです。傷ついた心を癒す曲はたくさんあるけれど、今日はこれ。

なるべく楽しいこと、明るいことを書こうと思っているのだけど、今回のことは誰にも言わないでいたので、どうしても書かないと進めない気がして書いてしまいました。この週末ほんとうに落ち込んでいたけれど、少しすっきりした気がします。
次は明るい話題で日記が書けますように。

古式ゆかしく

きょう会社で、書類チェックを頼みに、とあるおじいちゃんの所へ行った。
その人のデスク付近までたどり着いたら、どうも普段オフィスで見ないようなものを持っている様子。
さらに近づいてよく観察したところ…

1.PCでExcelの表を開き、
2.机上に関数電卓を置き、
3.その上から左手でそろばんを持ち、
4.右手でそろばんを弾き、
5.出てきた数字をExcelの表に入力。

…という、謎な作業をしていた。

Excel関数電卓の立場がない。

すごくコメントしたかったけれど、おじいちゃんだし、そんなことを言える相手ではない。
というわけで、黙って用事だけ伝えて戻ったのだった。
でも、その人はExcelの本も持っていて普段からよく参考にしている様子。しかも時々、わざわざわたしのいる部屋までやってきて「これってどういう数式入れればいいの?」とか尋ねられることもある。だからExcelが全く使えないというわけではないはずなのだ。
気になる。何してたんだろう。

担任だったK一先生と遭遇

高校2年・3年と担任の先生だった、S藤K一先生と、駅前で遭遇。たぶん8年ぶりぐらい。
一瞬で誰だか判るほど全く変わっておらず(お互い様か)、案の定わーきゃーと騒いだわたしに対して、相変わらずの冷静沈着な対応。クールというかドライというか、まあそれがK一先生。
わたしが高校を出たときは3歳だった息子さんも、今では立派に中学3年生とのこと。そりゃそうだ。
ちなみに、この先生の一言がなければ、わたしは東北大に進学しなかった。
センター試験で目標点に届かず、どうしても浪人したくなかったので「文転します」と言いに行った。人文学系を念頭に関東地方の大学をいくつか挙げたら、「そんなとこより、ここ」と出された候補が東北大学の文学部。東北大には届かないと思い込んでいたのが、センター試験の点数から判定にかけてみると安全圏な感じ。そして後期も東北大を受けるなら教育学部が安全という話になり、「先生になることは全く考えてないのですが」と話したら「大丈夫、東北大の教育学部はゼロ免(教員養成課程を設置してない)だから」という返事。結局、これが進路を決定づけた。
前期試験は、試験会場に行ってみたらどうにも落ちる気がして、予想通りに不合格。あれは何だったんだろう。そして後期試験で教育学部に合格。まさかその後6年も通うとは思いもよらなかったけど。
受験期の思い出はもう一つ。K一先生の奥さんが東京へ行くことになり、先生は「生徒たちのために、学業の御守を買ってきて」と頼んだそうだ。奥さんが帰ってきたら、買ってきたのは靖国神社の御守。「愚妻に頼んだら靖国神社の御守を買ってきてしまった。ということで君たちは、英霊に見守られながら受験してください」と言って、掲示してある時間割表の画鋲にその御守をかけていた先生。あの御守はその後どうなったのだろうか。
K一先生は決して熱血な先生ではなかったけれど、では生徒のことを考えていないかというと、そうではなかったと思う。またどこかで元気に会いたいものだ。

30年生きました

今さらだけれど、最近30歳になった。同時に、今の会社に入って、まる3年が経った。自分でもしっかり憶えているけれど、今の会社に入るときに、自分で「とりあえず」設定した3年の期限が過ぎたことになる。
入社して3年経って、ふと周囲を見回してみると、意外と環境が変わっていることに気がつく。右も左もわからなかった頃から2年間、手を携えて働いてきたヤヨイさんも出産のために今年の春に退職。入れ替わりに新人ちゃんが入ってきたけれど、いろいろな要因から、彼女もいつまでいるかわからない。では自分自身はどうかというと、これもまたふわふわと頼りなく、確固たる意志もなく日々を過ごしているとしか言いようがない。
それでも、自分を支えている数々の言葉の中でも、こういうことを考えるときに思い出す言葉は決まっている。

人生の選択肢は無限だ。以前、焦るわたしに、なおやがそう言ったことがあった。何かを選ぶときまでは、結局は一日をだいじにしていくしかない。時折こうして振り返りながら、少しずつでも進んでいく。ただそれだけである。(id:amitee:20081209)

大学へ入った19歳ぐらいの頃、30歳なんてとっくに結婚して、子どもの一人も産んでいるだろうと思っていた。大学院へ入学した23歳の頃、30歳には学者としての職を得て一人で食べていけているだろうか、その可能性はとても低いなと思っていた。最初に企業へ就職した25歳の頃、自分で選択した結果を認めなければいけないという気持ちと認めたくない気持ちとの狭間に立ち、30歳になる頃には何をしているだろうかと考えていた。
現状がどのようなものでも、それは自分の選んだ結果なのだという考え方は、20歳の頃から全く変わっていない。だからこれからも、自分でも想像のできないような未来が待っているだろうけれど、それは全て、自分の選択だと思う。無限の選択肢の中から、自分で決めた道をゆくしかない。自分でも気づかないようなほんの小さな選択にも、きちんと責任を取って生きていこう。それが30歳の、決意である。

再会いろいろ

先週は禾依たんの結婚式をメインに、一年ぶりに東京へ。それはそれは楽しい週末だった。

  • 会社の友だちと再会

禾依たんは最初の会社の同期。同じく同期のまきちゃんと3人で、寮(という名のマンション)のわたしの部屋でクリスマスパーティを催したのは、貴重な楽しい記憶。あまりいい思い出のない東京暮らしにあっては。
結婚式では、その会社の人たちと同じテーブルを囲んだのだけど、いろいろとその会社の暗い話を聞くこととなった。わたしが入社した当時、同期が全国で130人程度いたはずなのだけど、6年目の今、残っているのは30人ばかりではないかとのことだった。業界を取り巻く状況も厳しく、少し前には本社でも半分ぐらいの人がリストラに遭ったという話も出た。そもそもそのテーブルの人で、今もその会社に勤めている人がほとんどいない。会うのがあまりにも久しぶりなので、「今なんの仕事してるの?」に始まり、近況報告に忙しい我々であった。
もちろん結婚式はすばらしかった。楽しみにしていた禾依たんの花嫁姿は、お着物もドレスもとってもきれいで幸せそうだった(旦那さんもいい人だったし)。友だちの幸せな姿を見るのは、いつも嬉しいものである。

  • やすかわくん夫婦と再会

前回やすかわくんに会ったのは3年前(id:amitee:20071230)。当時まだ赤ちゃんだった上の子はすっかりお喋りできるようになっていたし、まもなく1歳の下の子もにっこり笑顔でご挨拶のできるかわいい子だった。
今回はサークルの人には誰も会わないで帰ろうかとも思っていたのだけど、たまたまやすかわくんから久しぶりにメールが来たので、会いに行くことにしたのだった。やすかわくんもともえちゃんもいい意味で変わっていなくてよかった。何か大事な話をしたというわけではないのだけど、楽しい時間を過ごさせてもらった。どうもありがとう。

  • タカキさんと再会

タカキさんは大学時代の先輩。前に会ったときは、確か学会か何かでタカキさんが東京に来たのだった。そのときかなり調子がよくなかった自分は、心配してくれていることはよくわかったのだけどどうにもできなかったのを憶えている。それから5年近く経って、すっかり元気に戻ってからまた会うことができたので嬉しかった。タカキさんは、自分でも言ってた通りちょっとぽにっとしていたのとメガネ男子になっていたこと以外は変わりなく元気そうだった。翌日も講義しなくちゃいけなかったのに、しかも論文か何かの締切に追われていたのに遅くまで付き合ってもらって、どうもありがとうございました。

  • 丸の内と再会

最後は人じゃなくて場所。東京駅は修復中でざんねんだったけれど、大好きな丸の内は変わらずすてきだった。以前は歩きにくかった御幸通りも整備されていて、皇居の方向へまっすぐの、良い眺めが広がっていた。丸の内のビル群も趣があり、素人だけど丸の内の再開発は成功しているように感じられた。
今回丸の内へ行くにあたって、以前「ブラタモリ」の丸の内の回(http://www.nhk.or.jp/buratamori/broadcast/vol002.html)で放送していた、三菱一号館美術館のカフェへ必ず行こうと決めていた。美術館がお休みの月曜日、歴史資料館は開いていたしそういう場所も好きなのだけど、今回はカフェとショップのみに行くことに(カフェはこんな感じ→Café 1894 | 新しい私に出会う、三菱一号館美術館)。カフェは案の定とても良い雰囲気で、お料理も美味しくて、大満足。大理石のカウンター越しにウェイターさんともお話しできたのだけど、美術館の展示がすばらしいときは一日中カフェの入店を待つ人が途絶えないほど混雑するらしい。今回はほとんど待たずに入れたので、のんびりできて良かった。平日バンザイ!

東京に住んでいないまきちゃんに次に会えるのはいつになるだろうか。でも元気でいればまた会える。転勤するまきちゃんと東京の寮で別れたときもそう言った。いろんな人が、いろんな人生を生きている。きっと楽しいことも楽しくないこともあるだろう。でも元気でいれば、いつか必ずまた会えると、本当にそう思う。